薩摩川内市の指定文化財(祁答院町・入来町編)

薩摩川内市の歴史は古く、多くの史跡が現存しています。
ここでは祁答院町、入来町の史跡をご紹介いたします。


岩屋観音磨崖仏(149)

(昭和58年4月21日町指定)

 上手楠原の県道脇の岩壁にあり、土地所有者の下村一夫氏が管理している。この地はむかし寺院があったといわれ、俗に院の鼻観音坂または院の坂とも呼ばれている。
 中央の岩穴は、巾、高さともに2m、奥行3mあり、その中に高さ1mの観音像が台座の上に安置されてあり、その背後に1mぐらいの平板石がある。岩穴は久富木川の底をくぐって対岸の西牟田城に続く抜穴であると伝承されている。岩穴の右方岩壁に、二体連座の観音像が上部に二体、下部に四体、その右方岩壁に上部に四体、下部に二体、いずれも深く浮き彫り、あるいは線刻されている。約250年前の江戸時代には、既に観音像は造営されていたというが、その由来については分からない。
 麿崖仏というのは、岩壁の側面に仏像を浮彫り、または、線刻したり、梵字を彫ったりしたものをいい、生前にあらかじめ自分のために仏事を修め、死後の冥福を祈るためのものである。近くでは薩摩町永野、宮之城湯田、入来町浦之名、東郷町斧渕、樋脇町倉野、川内市久住等にあり、町内ではここが一箇所である。

祁答院町史より


円明院仁王像(142)

 黒木の円明院は豊洲家島津久起が、元文4年(1739)頃旧領平松(重富)より移して祈願所としていたものである。移して間もなく寛保2年(1742)門前に二体の金剛明王像を建立した。
 明治2年の廃仏棄釈により、同寺は廃寺となり、この金剛明王像も地中に埋められたが、後年掘り出され円明院跡付近の元黒木村役場入口に安置されていた。その後、昭和51年にこれを常永寺の山門に移し現在に及んでいる。
 二体の像には「奉造立金剛明王一□寛保二壬戊年四月良辰」の同文が、いずれも像背に刻銘されている。
 下手の大応寺跡の仁王像は元文4年(1739)の造立で、町内で最も古いものであるが破損して完全ではなく、完全な仁王像としてはこの金剛明王像が町内最古のものである。

祁答院町史より


永源寺跡石塔群(150)


大乗妙典千部塔(148)


龍盛寺跡石塔群(153)


良重寺跡石塔群(152)


宇都六地蔵塔(145)

(昭和58年4月21日町指定)

下手の小字畠田、市の瀬橋の南、久富木川左岸にあった。圃場整備工事の際、田上實美氏所有の団地から出土したもので、昭和55年1月宇都石塔群の中に移転した。
高さ30cmの基礎上面に16弁の反花を彫り、高さ67cmの幢身正面に「奉造立道救主尊像一軀」、右に「願主比丘寿元」、左に「●永正七季申辰(一五一〇)霜月(十一月)廿四日」と掘ってあり、中台はなくなって、その上の六角龕部に六体の造形が彫ってある。室町時代末期に六道に迷う亡者を救うために、寿元が建立したもものである。
 六地蔵塔は、ふつう石幢であり、平安時代からの民間信仰で、道路脇や四辻、三叉路、お寺の門前等に建てられ、室町時代から江戸時代にかけて、最も盛んに建立された。石幢地蔵は、基礎、幢身、中台、龕部、笠、宝珠と積上げられた石塔で、六角龕部に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道に迷う六体の亡者の像形が彫ってある。生前死後を問わず、六道に迷う亡者を地蔵のもつ六道能化の力により、救ってもらおうという誓願から建立されたものである。
 ここには、六地蔵塔の他宝塔十数基も出土しており、その中には「妙香禅尼」等の法名もある。この地は寺屋敷と呼ばれて明治中期ごろまで観音堂が残っていたので、これらはその遺物であろう。そのころまで集落で観音踊を奉納していたという。六地蔵塔同様昭和55年1月宇都石塔群の中に移転した。

祁答院町史(昭和60年4月1日発行)より


藺牟田麓西の石敢当(146)


大翁寺跡石塔群等(154)


屋所石塔群(147)

昭和五二年四月一日町指定

 藺牟田大坪字の山頂台地にあり、土地所有者長沼重夫氏が管理している。昭和五一年石塔研究科黒田清光氏の手により、積み替え復元された、整備されたものである。
考古学資料及び美術工芸的文化財として貴重なものであり、昭和五二年四月一日、町文化財として指定された。
十数基の五輪塔群の中に、残欠塔身に「元応己天(元年、一三一九)六月廿一日」の紀年号銘の刻まれたものがあり、鎌倉時代の供養塔であることが分かる。県下でも稀に見る石塔群であり、塔軸身に見られる梵字及び仏像は得難いもので、仏像の着色と金袈裟の跡は、注目すべきものとされている。
 巷間渋谷氏の墓とされているが、残欠相輪の文様等からして、相良頼景(人吉領主)の第六子兵衛尉長継家の供養塔と考えられ、紀年号銘より長継の孫頼秀の逆修塔と思われる。すなわち層塔(三重塔)二基は元祖長継夫妻の供養塔として造立され、父母の石塔を造立するに当たっての、頼秀及びその一族の逆修供養塔群であると理解される。
 その辺一帯を屋所(やどこい)というが、屋所というのは鎌倉時代に渋谷氏が政庁をおいた所とされ、藺牟田では最も早く開けた所といわれている。
(昭和60年4月1日発行 祁答院町史より引用)


鷹之巣神社のイチイガシ(136)


松下田の田の神(118)


新大橋(139)


大永板碑・天文板碑(126,127)


渋谷有重の墓塔(125)


般者殿墓(133)


栗下磨崖仏(132)


諏訪神社のイスノキ(135)


お石塔(123)


入来院重高墓塔(134)


入来町中組の田の神(112)


下手の十三仏塔(128)